✝  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ1・14)

 

ご降誕祭おめでとうございます。

 

完全な霊である神は人間の体を引き受けて、人間となりました。大変驚くべきことではないでしょうか。そこまで神はお創りになった人間を愛してくださいました。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316

 

 

 神はご自分がどういう神であるかということを人間にわかってもらうためにはこの方法しかなかったのです。人間は体をとおして物事を理解するからです。目、耳、口、手などによって人とのコミュニケ-ションができるからです。

 

 

わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ149)。しかしイエスを見ることはイエスの体を見ることです。イエスの体をとおしてイエスの心を見ることができるのです。イエスが重い皮膚病の人の体に触れたり、子どもを抱いたり、罪びとと食事したり、ゆるされた女の人に足を洗うことを許したりするのを見る時、イエスの心に触れることができます。また鞭打たれて十字架で裸にされた体が命を失ったことを沈思する時、イエスの体の内に、人に対する神の愛と神の愛に対する人の応えを同時に見せていただいています。

 

  永遠の神は世の創造の時に時間を創っただけではなく、人となって時間に入ってくださいました。人間の時間を体験なさいました。また霊である神は空間にもお入りになりました。ナザレトで人になり、ベトレヘムで生まれ、ガリラヤ、サマリア、ユダヤで神を啓示なさいました。そしてエルサレムで亡くなりました。それからイエスは復活し、人として神の命にあずかり、時間と空間を乗り越えて、どこにいる人にも、いつの世の人にも会うことができるようになりました。

 

 イエスは人となって、神がどういう神であるかを教えただけではなく、人がどういう者であるかをもお示しになりました。「わたしを見た人は父を見た」とおっしゃったが、イエスの内に父を見るだけではなく、人間がどういう者であるか見ることもできます。御父へのイエスの答えは、人の答えはどうあるべきかということを示しているのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ812神の人への招きと人間の神への答えはイエスのうちに一つになっています。

 

  わたしたちは自分の体をもって神の恵みに応えます。教会の祈りである典礼のときも、奥まった部屋に入って戸を閉めて一人で祈るときも、体をもって祈っています。典礼の時に、キリストの復活にすでに与っていることを示すために立って祈ります。静かに神の言葉を聞くために座っています。神を礼拝するときまた、罪の赦しを願う時、跪いて祈ります。互いに神の平和を交わすとき相手に頭を下げるなどです。しかし特に秘跡を受ける時に、神の恵みは体をとおして与えられることは明らかになります。洗礼の水は頭に注がれ、堅信の聖香油は額に塗られ、ミサの時にキリストの御からだは口に入れられます、結婚の秘跡によって二人の体はイエスと教会の一致のシンボルとなり、赦しの秘跡は罪を口で告白します、病者の油は額と手に塗られ、叙階の時には頭に按手を受け、手に聖香油が塗られます。

 

 個人で祈るときも体の態度は大切です。背筋をまっすぐにしたり、呼吸にリズムを付けたりすることは祈りを助けます。座禅をして祈ることは体を邪魔物として抑えることではなく、体を整え休ませて、精神を体の要求から解放することです。

 

 

 

 また、キリストが教えた神への愛は隣人に対する愛によって示されることでした。隣人に対する愛は口先ではなく、実際の行いによって示されます。隣人の体に対するいつくしみをまず考えなければなりません。飢え死にしそうな人、病に苦しむ人、旅をしている人などです。相手の体を大切にすることは、神を愛することになります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ2540

 

 イエスはわたしたちといつも一緒にいてくださる神です「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ123)、それはすべての時、世の終わりの時までもです「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28.20)神の御子の受肉の神秘は救いの始まりと核心と完成です。ご降誕祭はわたしたちの心を感

                  謝でいっぱいに満たします。

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報138号記事より)