✝  神の謙遜 、教会の謙遜、弟子の謙遜

 

神の謙遜

 

教皇ベネディクト16世は2008年にフランスを訪問なさったときに「あなた方の謙遜が神の謙遜と一致しますように」と言いました。その時から教皇の言葉の中に「神の謙遜」という言葉は度々出てきます。教皇フランシスコは何回も「神の謙遜」について話されています。2013年にはブラジルの司教団に、謙遜は神のDNA にあると言っておられました。神は人間でないのでもちろんDNAはありませんが、謙遜は神の本質に属すると主張なさったのです。しかし、わたしたちはイエスの謙遜は理解できても、全能永遠の神の謙遜と聞くと驚くでしょう。

 

 

 

 イエスが謙遜な方であることはすぐ理解できます。フィリピの信徒への手紙はイエスの謙遜をはっきり教えています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2.6-8) ヘブライ人への手紙もイエスの謙遜を教えます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5.8) 

 

またイエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために…来た」(マタイ20.28)と弟子たちに言いました。イエスはご自分が謙遜であると言っていました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11.29)と言われたことはよく知られています。飼い葉桶のイエス、鞭打たれるイエス、茨の冠を被せられるイエス、裸にされて、十字架に釘つけられるイエスを眺めるとき、イエスの謙遜に心を打たれます。

 

しかし全能の神、宇宙万物の創造主である神、誰も見ることのできない神は(Ⅰテモテ6.16参照)謙遜な神であると考えにくいことではないでしょうか。ところが考えてみると、愛と謙遜は切り離せないことです。愛は必ず謙遜で、強制的に相手を従わせることはありません。神は人間がご自分の愛に応えることを請い願っています。人間の自由を尊重しています。そして、「わたしを見た人は父を見た」とイエスの言葉を受けるなら、イエスの謙遜は御父の内にも見えるはずでしょう。馬小屋と十字架のイエスは神の謙遜を表しているでしょう。コロサイの手紙のなかで同じことがあります「御子は、見えない神の姿であり」ます。(コロサイ1.15

 

 

 

教会の謙遜

 

 2015年にご降誕祭を正しく準備するために教皇フランシスコは、教会がキリストに忠実について行くために謙遜で貧しい教会でなければならないと言っていました。教会が自分の権威、自分の尊さを自慢し、金銭に執着するならキリストの望む教会ではありません。神の民は罪びとの民であるとまず認めるべきだと言っていました。

 

 

 

弟子の謙遜

 

 同じときに教皇は、兄弟の罪ばかりを見て兄弟の傲慢な態度をいつも批判するなら、隣人を裁く人になると言いました。しかしイエスは他人を裁かないように弟子に言っています。また「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである」と弟子たちに要求なさいました。(マタイ5.44-45

 

 真の謙遜は自分が何もできない者だと思うことではありません。パウロは神の恵みによって何でもできると思っていました。自分の弱さに悩んでいた時、神に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12.9)また「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Ⅰコリント15.10

 

 しかし、謙遜の模範はマリアさまではないでしょうか。マリア様は謙遜がどういうことであるかマグニフィカトの歌の中で教えています。謙遜は自分が何もできない者であることを認めることではありません。神が自分に目を留めてくださったので、自分が低い者であっても、その恵みによって神のみ心を行うことができるのです。神は偉大なわざを自分の内になさいました。自分ができることは自分の力によることではなく、神の愛のおかげです。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ1.46-50

 

 

 

謙遜の反対は、神から受けた恵みを自分の力によって造ったものだと思うことです。それこそは傲慢な心です。わたしたちはいつもまことに謙遜になりたいなら、イエスに学ぶ方法しかありません。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。(マタイ11.29

 

皆さんに主の平和がありますように。

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報135号記事より)