✝ 平和と一致

 

 クリスマスの平和が皆さんを包んでくれるようにお祈りいたします。

 

神の御子が受肉なさったのは神の平和を地上に与えるためでした。御降誕の時に天使たちはそれを歌っています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2.14)。受難に入る前にイエスはご自分の平和を弟子たちに与えてくださったし(ヨハネ14.27)、復活したイエスの最初の言葉は「あなた方に平和があるように」(ルカ24.36)でした。

 

戦争が止まない私たちの世はその平和に飢えている。しかし平和への道を歩まず、殺し合っています。神が望んでおられる兄弟的な一致に向かって努力する代わりに、分裂へと向かっているのです。

 

 

教皇フランシスコは、宗教、特に普遍的な宗教であるキリスト教が、こうした現実とは反対の方向へと導く責任と義務があることを繰り返しアピールしています。

 

平和のために他の宗教と一緒に働くのを目指すなら、キリストの教会自身が一致を目指すべきです。教会の一致は教皇フランシスコにとって優先的な課題だと強調しています。それは第二バチカン公会議の歴代の教皇と同じです。

 

キリストの教会の一致に向かうために、今年も二つの素晴らしい出来事がありました。212日にキューバで教皇フランシスコはロシア正教会のキリル総主教と初めての会見をしました。それは千年の間できなかったことです。教皇フランシスコはキリル総主教を抱いた時に彼を兄弟と呼ばれ、またローマ教会が与えた害のために許しを願いました。もう一つは、1031日に教皇がルター派世界連盟の招きに応えて、マルチン・ルターの宗教改革から500年を記念するエキュメニカルな行事に出席したことです。その時教皇フランシスコは第二バチカン公会議の時から二つの教会がお互いに近づいてきたことを神に感謝するために参加していると言っていました。この二つの出来事は最近まで考えられなかったことです。

 

 

そこで、私たちは教会一致の大切さについてもう一度考えましょう。キリストの教会はローマカトリック教会だけではないことをわたしたちは知っています。同じ三位一体を信じ、同じ聖書を学び、同じ洗礼を行う教会は、キリストの教会に属しています。その教会は残念ながら分裂しています。第二バチカン公会議が教えたように「この一致はキリストがご自分の教会に当初から与えたものであり、われわれはそれが不滅のものとしてカトリック教会の中に存続していることを信じ」ます(エキュメニズムに関する教令)。しかしほかのキリスト教の教会でも啓示の大切さを保っていることも知っています。教皇フランシスコはルター教会からわたしたちが学ぶことがあると言っていました。カトリック教会と他の教会が共通している信仰は、異なる信仰箇条よりもはるかに大きいと教皇は言っています。

 

すべては一緒に祈ることから始まるのです。そして他の教会からいいところを学ぶ心を持つことです。2014年の11月にイスタンブールに来ていた教皇フランシスコは東方教会のバルトロメ総主教に自分とローマ教会を祝福するようにお願いしたことが記憶に残っています。

 

弟子たちの一致はキリストの強い望みでした、最後の晩餐の時にその一致のために御父に祈りました。その一致は宣教の条件となっています。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17.21

 

 

 

わたしたちはミサの時に、教会の一致のために毎回祈ります。先ずそのミサで同じ食卓を囲んでいる人たちの一致ですが、キリストの教会の一致のための祈りでもあります。それはローマカトリック教会の一致のためだけではなく、キリストの教会の一致のための祈りです。「お言葉の通り、教会に平和と一致をおあたえください」(主の祈りの続き)

 

また毎年、すべての教会はキリストの教会の一致のために祈ります。わたしたちもそれを心を一つにして祈ります。他の教会の兄弟たちと一緒に祈れること、彼らのメッセージをいただけることは御父の恵みです。

 

それでは2017年が平和の年になりますように。

 

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報132号記事より)

 

 

 

 

✝ キリスト信者が病気になるとき

人が健康な時は、自分の体についてあまり考えないで毎日を過ごしています。これから「私」が散歩に行く、友人と飲みに行くと当然思うのです。その時自分の「体」が散歩に行く、自分の体が飲みに行くと思っていません。自分と体との区別をしないことは当然です。すなわち「自分が体である」と確信しています。しかし、病気が訪れて、体が自分の意志に従わなくなってくると、自分が体であるという当然のフィーリングは「自分が体を持っている」というフィーリングに

                    変わってきます。

 

 病気の訪れは老年のときだったら、納得ができるかもしれません。人間はいつかこの世を去ることだとあきらめるかもしれません。しかし、子どもの場合、または子どもがまだ必要としている母親の重病は納得ができることではありません。神に文句を言いたくなります。病気は罰ではないのにどうして自分が病気になったのか、神がわたしを愛しておられるなら、また全能でおられるなら、何とかしてくださるはずでしょう。「どうして私に」、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言いたくなるのです。神に文句を言うだけではなく、自分の体にも文句を言ってしまうこともあります。その時キリスト信者は信仰の内に力を見いだすことができたら幸いです。先ず苦しみを体験したイエスを思い出すのです「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ人への手紙 218節)。キリストとともに今の自分が苦しんでいる、またキリストはわたしと一緒に苦しんでいると思って、イエスは今こそそばにいてくださると信じるのです。そして、自分が動けなくとも、自分の毎日は神のみ前で無意味ではないと信じるのです。

 

  場合によって、病気の原因、または病気が癒せない理由は人間の利己心にあります。人のわがままの生活の結果の病気もあり得るし、戦争のために使う国の金を病気を治すために使えば、もういくつの病気は治っているでしょう。経済的に豊な国が財産を分かち合えるなら、栄養の不足のため病気になっている子供はいなくなるでしょう。しかし、自分が病気になった時にそのような考え方は力がありません。

 

  病気が身体の状態を大きく変えるとき、生きている世と周りの人々との関係も大変変わってきます。人の体は生きている環境、家族、職業の仲間、地域の人々および自分自身との関係の手段ですから、体がその関係をたやすく引き受けることができなくなると、人生に大きな変化が表れてきます。そしてその関係の内に神との関係もいつも生きているので、神との結びも深く考えさせられます。これは人生の中で大きな試練です。

 

 その時こそ、教会の秘跡は力になるのです。病者の秘跡を受けるのは、まず病気を治すためですが、病気に心が負けないためでもあります。聖体の秘跡によって、イエスに強められて、イエスと兄弟と結ばれて、イエスとともに御父に今の自分を多くの人のために自分の試練をささげます。イエスの力、平和、愛をもって病気の毎日をしのぶ恵みもうけます。赦しの秘跡も平和の泉です。

 

  病気の時に体の痛みを感じることだけではなく、心の痛みも襲ってくることがあります。周りの者たちのために何もできなくなる思い、だんだん友人との絆は薄くなってくる寂しさ、人が自分をただ病者としてしか見ないで自分が病気以外のアイデンティティが尊重されていないフラストレーションを感じる。そう考えると、ここで、わたしたちが反省すべきことはあるかもしれません。病気の仲間をエリサベト会のような共同体の特定のグループにお願いしてしまって、安心しているのではないでしょうか。また大津教会の「健康を祈るミサ」の日だけではなく、兄弟姉妹のために祈っているでしょうか。

 

  イエスは最後の日にわたしたちに「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが、病気のときに見舞いに来てくれたからだ。」を聞かされたら幸いでしょう。考えると、病気になった兄弟姉妹はわたしたちのためにはイエスの秘跡ではありませんか。

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報130号記事より)

 

 

 

 

✝ いつくしみの特別聖年

 

最後に行われた聖年は2000年だったので、その後受洗した人には聖年という言葉は聞きなれない言葉でしょう。聖年は信者の信仰を再び活気づけるために25年ごとに行われるものです。特別な聖年もあります。例えば1933年にキリストの死と復活を盛大に祝うために特別な聖年が定められました。

 

聖年の根拠は旧約聖書のレビ記にあります。(25855節)「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」(810節)

 

教皇フランシスコは今年128日無原罪の聖マリアの祭日に始まり、2016年の1120日王であるキリストの祭日で幕を閉じる特別聖年を定めた理由をはっきりと示しました。それは平和を脅かしている世界に一番必要な癒しは神のいつくしみを信じて、兄弟として互いに助け合うということです。したがって特別聖年のテーマは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」となっています。教皇フランシスコはまず「神はいつくしみ深いかたである」ことを強調しています。これは福音の核心です。キリストは御父のいつくしみを言葉と行動をもって啓示するために人となりました。 

 

しかし教会は長い間神のいつくしみを神の特性の一つとしてしか考えていませんでした。神は全能、全知、正義、そしていつくしみ深い方であられると教えていました。しかし憐れみを起こすことは神に固有なことです。神の全能は何よりも第一に憐れみにおいて明示されます。

 

 神はいつくしみ深い方であることは旧約聖書によく出てきます。特に詩編の中で。「主よ、あなたは情け深い神、憐れみに富み、忍耐強く慈しみとまことに満ちておられる」。(詩編8615節)預言者もそれを言っています。イザヤは神を優しい母と描いている。「あなたたちは乳房に養われ抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるようにわたしはあなたたちを慰める」(イザヤ661213節)。

  

 福音書では、イエスこそいつくしみ深い父の御顔です。多くの貧しい人たちに対していつくしみの手を差し伸べてくださいました。ナインのやもめを見て哀れに思い、息子を蘇らせました。またよいサマリア人は倒れていた人を見て哀れにおもってその人を助けました。イエスは失われた羊、銀貨をなくした女、放蕩息子の例え話の中で神のいつくしみを徹底的に教えました。赦すことは神の喜びです。

 

 神の正義は、人間の正義と違います。神はあるルールに従って裁くのではない。ルールを基準にしていません。神は罪びとを正しい人に変えるのです。赦されるのは罪ではなく、罪びとです。いつくしみは罪を軽んじることではない、罪を捨てて悔い改めることが赦される条件です。神の恵みを受けるか拒むかということは人間の責任です。

 

教皇は神のいつくしみの信仰を活気づけてから、イエスの弟子に、父が憐れみ深いように、憐れみ深い者となることを求めます。敵を愛することまでです。(ルカ63536) イエスは先にそれを示しました「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」。(ルカ2334) イエスは「十字架によって敵意を滅ぼされました」。(エフェソ216) しかし、害を与えた人だけを考え、害を受けた人を忘れることは神の望みではありません。

 

  いつくしみに対する罪は人に害を与えることだけではない、怠りの罪もあります。すべての民族を裁く話の中で裁かれる人は規則を破ったから裁かれるのではない、善を怠ったからです。いつくしみ深い者ではなかったからです。(マタイ253146節)

 

 聖年の精神は特に現代社会のために必要です。人は兄弟的な世を造る代わりに、憎しみ合って相手を敵にしています。毎日恐ろしいことを聞かされます。しかし悪に悪を返すと悪は増える一方です。悪に勝つのは愛だけです。

 

  教皇は聖年の間にまず祈るように、また巡礼するように願います。教区長が決める教会への巡礼は聖年の一つの大切な信心でしょう。神のいつくしみを受けるために特にゆるしの秘跡に近づくように勧めています。また、身体的なわざと精神的なわざを行うように奨励しています。「貧困という悲劇を前にして眠ったままであることの多いわたしたちの意識を目覚めさせ、貧しい人が神のいつくしみの優先対象であるという福音の核心を、より一層深く理解する」ようにとアピールしています。

 

 わたしたちに人に対するいつくしみが求められているのは、わたしたち自身がまず神のいつくしみを受けているからです。

 

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」

 

 

 

   教皇フランシスコ「いつくしみの特別聖年のための祈り」

 

主イエス・キリスト、
あなたは、わたしたちが天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう教え、
あなたを見る者は御父を見る、と仰せになりました。
み顔を示してくださればわたしたちは救われます。
あなたの愛に満ちたまなざしによって、 ザアカイとマタイは富への執着から解き放たれ、
姦通の女とマグダラのマリアは、この世のものだけに幸せを求めることから解放されました。
ペトロはあなたを裏切った後に涙を流し、 悔い改めた盗人には楽園が約束されました。
あなたはサマリアの女に、「もしあなたが神のたまものを知っていたなら」と語られました。
このことばを、わたしたち一人ひとりに向けられたことばとして聞かせてください。

 

あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、
無知と過ちの闇の中を歩む人々を、心から思いやることができるようお望みになりました。
これら仕える者に出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。

 

あなたの霊を送り、わたしたち一人ひとりに油を注ぎ、聖なるものとしてください。
神のいつくしみの聖なる年が、主の恵みに満ちた一年となり、
あなたの教会が新たな熱意をもって、貧しい人によい知らせをもたらし、
捕らわれ、抑圧されている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げることができますように。

 

この祈りを、いつくしみの母であるマリアの取り次ぎによって、御父と聖霊とともに世々に生き、治めておられるあなたにおささげいたします。  アーメン。  

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第128号記事より)

 

 

 

✝ キリストの体は、神から人間への   そして人間から神への道

唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない」(テモテ616神はご自分のことを人間に知らせ、ご自分の内に人を住まわせるために、御子において、人の体をとってくださいました。「みことばは肉となった」(ヨハネ114)ので、御子の体の内に神性が宿られました。「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」(コロサイ29)

 

  人は他の人との交わりは体を使うことから始まります。見ること、聞くこと、触れることがなければ、交わりもありません。それは体の働きです。人間にご自分を示すために神は御子に体をお与えになりました。人間はイエスの言葉と行動を通して神を知ることになったのです。「わたしを見た者は父を見ている」(ヨハネ149)。神の心を知るために、飼い葉桶のイエス、ガリラヤの道を歩くイエス、十字架につけられたイエスを見なければなりません。イエスの体は神から人間への道です。

 

 また、イエスの体は人間から神への道です。イエスは十字架上で御父に委ねられた自分の体で神への道を開いたのです。「神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(コロサイ122)。イエスの言葉を深く味わえます「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ146

 

 神のみ言葉の受肉によって、神の内に永遠に、人間の体があるので、人間の体は新しい尊さをいただきました。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」(コリント613)。「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(テサロニケ523)。

 

 しかし、体に対する一般の考えは最近どうでしょうか。テレビを見ると、健康、美容、料理など、自分の体への関心が中心となっている番組はとても多いです。その一方で、他人の体に対してはどうでしょうか。子どもの体まで命を奪う行動、飢える人々の画像を見ても慣れすぎて無関心、買われる人の体、テロと民族戦争の人間同士の憎しみは毎日のニュースになっています。

 

 しかし、隣人に対する愛は体から始まるのです。イエスはそれを強調していました。マタイ福音書で、イエスは、最後の審判の時、人が隣人の体に必要な助けを与えたかどうかとたずねています「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し」(マタイ2535

 

 体が生きている限り、神の愛を受け、神の愛へ自分をささげ、隣人を自分のように愛して生きることができたらと望んでいます。

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第126号記事より)

 

 

✝ 存在するその不思議な、すばらしいこと

何億兆年前からあった宇宙万物の中に、わたしがいつか存在し始めた、これは大変不思議なことだと思います。偶然だったでしょうか。あるいはやはり神が望まれて存在し始めたのでしょうか。そして何のために存在が与えられたのか。人が理由なしに存在し始め、意味のない死を向かえておしまいになるとは考えられません。

 

存在することは不思議でたまらない、と同時に存在の素晴らしさは計り知れません。大自然に包まれて生きるのはなんと幸せなことでしょう。空にそびえる高山の頂上に立つ時も、限りのない広大な大海原を眺める時も息が止まりそうです。また謙遜に隠れて咲いているスミレに出会う時に命の尊さ、美しさのゆえに心は感嘆と感謝に満たされます。

 それだけではなく、子どもの時に母に抱かれて愛されている喜びと安心、青年の時に友と共に冒険したり、大人になって仲間と一杯を飲んだりした時の友情の満足感。国籍、貧富、性別の壁を乗り越えて、新しい世界に一歩を踏みだす勇気のおかげで、新しい仲間に受け入れられ、新しい冨を発見したその時に存在の意味がますます深くなってきた喜び。

 しかし、この世には、バラだけではない、とげのある茨もあります。大自然は抵抗できない力をもって、人に不幸をもたらすこともあります。また、利己心と傲慢に束縛されている人はわたしたちの社会を破壊している。そのために、他人に手を差し伸べる代わりに、自分を守ろうとして人は防御の壁を作ります。わたしたちの世の中で全ての人が幸せの日々を過ごしているのではない。恵まれていない人、生きることさえも耐え忍べない人にも出会います。

 

そこで、自分の存在を全うするために何をしたらいいかと考えるのです。人が幸せになるために、何をすべきかと考えます。自分だけの幸せを求めることは解決になりません。すべての人の幸せを求めなければ、自分の幸せはいつまでも不完全です。私は幸せになるその術を、イエス・キリストに出会って見つけました。幸せは心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することだとわかりました。やはり愛と命は同義です。

また、本当の自分になることはその精神に生きる以外には道がないとわかったのです。そして、自分の信念をはっきり現し、その信念に従って生きようとするなら、人との有益な対話ができるようになります。

 最後に、この世で味わう命はいつか過ぎ去っていきます。この地上では永遠なものはありません。では、この地球の土を踏んでいる私はどうなるのか。ここで、もう一つの不思議なことがあるのです。わたしの存在はいつか始まったのですが、その存在は終わりがない、それも大変不思議なことです。神の愛の内に永遠に生きるのです。わたしの存在は始まりがあったが、終わりがありません。永遠に終わりがないのです。

 新年を迎える季節に、わたしたちは時間の大切さを当然考えるでしょう。自分の存在も時間の中で始まり、継続し、いつか終わりになるでしょう。しかし、自分の存在は神のみ手によって始まり、神の助けによって続いていて、地上の最後の日に神の計り知れない愛の中に復活すると確信しています。

 わたしは与えられる新しい年のすべての日を、せいいっぱいに生きたいと思います。与えられた存在を神に感謝しながら。


協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第124号記事より)

 

 

✝「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4:4)

 このごろ、テレビの料理の番組はた いへん多くなっています。テレビをつけると、必ずどこかで料理の話があります。美味しい食事を作る方法、健康を助ける料理、毒を防ぐ知恵などなどです。それは悪いことではありませんが、同じように心を健康にする方法、心の毒を防ぐ知恵についても考えさせたらと思います。あくまでも心の毒とは利己心と傲慢です。それは人の心を干上がらせてしまいます。

 

そして、個人だけではなく、地域、国、人種、宗教にも利己心と傲慢があることを忘れてはなりません。国の傲慢と利己心を乗り越えて、兄弟愛の世界を作ることは不可能でしょうか。

 人間が平和の中に一緒に生きることはなんと難しいことか。三年間続いているシリアの内戦、また武器の力によって解決を目指している南スーダン、アフリカ共和国、ナイジェリア、ウクライナのようなところが多いですが、武器の力は一時的に秩序をとり戻すことはできても、平和をもたらすことはありません。すべての人が兄弟であるのを否定すると、やがてそれは人間の恥である民族の大虐殺の狂気にまで至ります。

 

 現教皇フランシスコはいつもいつも戦争をやめ、話し合いを始めるように強く訴えています。特に、戦争している国に武器を売ることをやめるようにと厳しく戒めています。しかし、先進国は自分の利益しか考えていません。女性や子供が殺されることによって、武器を売る側は儲け続けているのです。 

 幸いに、多くのNGOは兄弟愛をもって、恵まれていない国の人を助けようとしています。飢え死にしている子供、教育を受けられない青年、貧困から脱することのできない家族を何とかしようと思う人は増えています。この人たちは兄弟的世界を築き上げるというわたしたちの希望を支えてくれるのです。冒頭で料理の番組が多いと書きましたが、幸いに、十分食べられない子どもたちのためにアピールする番組も時々出てくるようになりました。

 

 教皇フランシスコは貧困生活を送っている人が多い国の司教だったので、貧しい兄弟を助けることは教会の大事な掟だと頻繁に繰り返しています。

 

 キリストはわたしたちの平和です。復活なさったキリストは神の平和を弟子たちに与えました(ヨハネ20:19)。ミサをささげるとき、神の平和を兄弟から受け、兄弟に平和を与えます。この平和はあるグループの平和だけではなく、世界の平和にまで広げなければなりません。そのように始め、そして広げていくならば「闇の中を歩む民は大いなる光を見た、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」イザヤの予言は実現するでしょう。(イザヤ9:1

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報122号記事より)

 

 

 

✝ マラナタ、主よ来てください

 

 ご降誕祭の光が新しい年の毎日を照らしますように。クリスマスの日が来ると多くの人の心の中に平和への希望が燃えてくるのではないでしょうか。これはお恵みです。しかしこの希望が実現するためには、相手を尊重し、努力する必要があります。神は人々がお互いに平和の絆によって結ばれることを望んでおられます。そのために人間の一人になることまでを拒まれませんでした。

 

イエス・キリストがお生まれになった時、天使たちは神の栄光を歌って、人間への平和を約束されました。

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)

 

神がキリストにおいてご自分をしになりました。イエスは「見えない神の姿」であるとパウロが言っています。(コロサイ1:15) 神がご自分を現す最高の場面は二つあります。布にくるまって飼い葉桶の中に寝ているイエスの場面と、十字架に釘つけられたイエスの場面です。二つとも全能の神が私たちにはっきりと「神は愛である」と示されているのです。これこそを眺めるなら、神に対するわたしたちの概念をまったく変えなければなりません。それは愛に満ち溢れる神の姿。「神はその独り子をお与えになるほどに世を愛された」のです(ヨハネ3:16)。神の愛がまず先にあります。その愛を得るためにわたしたちが偉いこと、難しい苦行をしなければならないことはありません。条件なしにわたしたちは愛されています。その愛をただただ受け入れるだけです。その愛を拒まなければ十分です。

 

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(ルカ11:9)と言われましたが、それは神の愛へのわたしたちの応えです。たいていの宗教は人が努力して神に近づかなければならないと教えるのですが、キリスト教は逆に神が人々に近づくのです。それは、この世にお生まれになった飼い葉桶のイエスを眺めると、はっきりわかります。失われた羊のたとえ話の中でもそれは明確です(ルカ15:37)。羊飼いは「見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。羊飼いの心が描かれているが、羊の心についてなにも言われていません。

 

またザアカイとの出会いの時イエスの言葉を思い出しましょう。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)。また黙示録に次の言葉があります。「 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)

 

キリストはわたしたちを愛し、すぐそばに来て呼んでいます。わたしたちの愛の応えを待っています。強制的に人の心に入りません。人の自由を尊重しています。自由がなければ愛はあり得ないからです。

 

大切なことは神の愛を感謝のうちに受け入れることです。しかしこれは一つの選択です。「二人の主人に仕えることはできません「神と富に仕えることはない」(ルカ16:13)考えてみると神に近づくことは神の霊の力によるのですが、この世の富のロープはわたしたちをマヒさせてしまうので、それを切らなければなりません。風船にガスが詰まっていても、ロープを切らなければ空を飛ぶことができないように。

 

キリストは二千年前においでになりました。世の終わりに栄光のうちにまたおいでになります。しかし今この時代にも、毎日おいでになります。目を覚ましてイエス・キリストの訪れを逃さないように。クリスマスはキリストの訪れに敏感になるために素晴らしい季節です。

 

皆さん、恵み豊かなクリスマスをお迎えください。クリスマスが与える元気によって2014年の新しい年を始めましょう。


協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第120号記事より)

 

 

 

✝ 聖霊が教会に与えてくださったフランシスコ教皇

 教皇フランシスコが今年の三月十三日にローマ教区の司教として着座なさいました。ローマの司教は聖ペトロの跡継ぎとしてすべての地方教会の愛の一致に注意を払う責任があります。そのときからまだ三ケ月しか経っていませんが、今まで私たちが持っていた教皇のイメージがだいぶ変わりました。これまでのイメージでは、教皇は偉く、スイス衛兵が警護するヴァチカン宮殿に住んでいて、近寄りがたい方。教皇庁によって、全教会のすべての問題を一人で決めることができる方。ほかのキリスト信者よりもキリストの近くに生きている方。

 

 教皇フランシスコはそのパターンを破ってしまいました。教皇は私たちの近くにいると感じさせました。ヴァチカンの宮殿に住むのではなく、普通のホテルに住んでいて、人と一緒に食事をし、平日のミサにいろいろの信徒を招いて、皆がわかる言葉で彼らに説教してくださる。

 

 信徒があまり読めない回勅より、教皇のそうした行動の方が、信徒に与える影響は大きいようです。反抗を恐れず、群衆の中に入り、障害者、子どもを抱いて接吻する教皇。こうした姿は福音のイエスのイメージを浮かばせます。新しい風が通るのを感じる人は多いと思います。                   


 教皇フランシスコの行動と言葉も人の心を感動させます。教皇として選ばれて、バルコニーに姿を現わしたとき、自分が人々を祝福する前に、信者の祝福を願ったことは皆をびっくりさせました。神の民の祭司職を心から重んじる方だと感じさせられました。また、聖霊への信頼、貧しい人の優先、勇気をもって宣教することはたびたび説教のテーマになっています。ここで教皇の言われたことをいくつか簡単にまとめましょう。


 まず、聖霊について

多くの場合、聖霊はわたしたちをおびえさせるだけではなく、分裂までもたらすこともあります。人が新しいことを怖がることもあるからです。しかし聖霊はハーモニーの聖霊ですから、一致の力も与えてくださいます。たとえば第2ヴァチカン公会議のとき聖霊が示してくださった刷新はまだまだ十分に行われていません。聖霊は、一様化した教会を望むのではなく、生き方が違っていても愛の一致を望んでいます。地方教会のイニシアチブを前よりも認めることになると思われます。多くの司教が望んでいる教皇庁の変化も可能になると思われるようになりました。


 質素に生きる教会

 経済的に豊かになる教会は老いてゆく教会です。教会は貧しい人々の教会になるために、自分も貧しくならなければなりません。教皇がフランシスコという名前を選んだことは、自らの精神を表したことになります。ヴァチカンのアパートに住むことも夏休みにガステル・ガンドルフオのリゾートに行くことも望まないことも、やはり普通の人々の生活と離れる生活をしたくないからです。


 勇気をもって、世の中でイエス・キリストの証し人になるように

 自分のことばかりを考えている教会は病気の教会だと言っています。恐れずにキリスト者として世の中で生きるように私たちを励ましています。若い者に話しておられたときに、彼らが政治家になるように勧められました。

 

壁を作るのではなく、橋を作るように。

すべての人々との対話において、神の賜物である真理に近づき、互いに豊かにし合うため、福音と文化との間に壁ではなく橋を作る「対話の人」であるようにと述べています。


 カトリック以外のキリスト教会の責任者たちも、キリスト教以外の宗教者も、教皇の対話の素質に動かされているようです。


協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第118号記事より)

 

 

 

 

✝ 神様の追い風

 春よ、来るがよい。春は、寒さを後に残して離れて行こうという気持ちが、よく湧いてくる季節です。長い間眠っていたモノクロームの寂しい自然風景が消えてしまい、代わりに、眩しい命が突然に登場することになります。解放されていく実感が湧いてきます。暫く眠っていた私たちも、急に起こされてしまいます。

 言葉を変えれば、冬の気候の中で育まれた忍耐によって、内向きになりやすくなった私たちが、蘇られた命を再び迎えることによって、世界を両腕で抱こうという新鮮、積極的な気持ちが生まれてくるでしょう。

 

 数ヶ月、数年の間、イエス・キリストの入門の道を歩んで来られた求道者の方の皆さん、おめでとうございます。多くの兄弟姉妹に暖かく囲まれて受洗された復活徹夜祭の土曜日の夜は、きっと忘れられないことでしょう。これからも私たちの集いによく参加して下さい。新しい兄弟姉妹と交わりながら、神の子であるアイデンティティーと人びとと交わる使命を求めて下さい。与えられた代母の方とともに探して下さい。その作業のため、遠慮という壁を突破してください。

 

 「求めなさい、そうすれば与えられる。叩きなさい、そうすれば門が開かれる」。

 これはマタイのことば(7章7節)です。キリストの体である教会の完全な一員に成るよう祈ります。

 

 さて、洗礼の更新をしてきた兄弟姉妹であるわたしたちに、パウロはローマ人への手紙(6章3~4節)の中で、次のように洗礼について思い出させてくれます。

 

 「洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたではありませんか。わたしたちはその死にあずかるために、洗礼によってキリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者のうちから復活させられたように、わたしたちもまた、新しいいのちに歩むためです。」

 

 人生は、やはり旅である、と聖書が教えてくれます。イエス・キリストの指導の下で歩み、イエス・キリストと結ばれることによって、イエス・キリストが天の父の所まで案内してくれます。架け橋になってくれるとても大事な存在です。使徒ヨハネも印象深いことば(14章6節)で,イエス・キリストを紹介してくれます。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である」。

 

 イエス・キリストに従って行けば、御父の所まで必ず案内してくれます。そして、御父である神から永遠の命を与えられます。しかし、私たちの前に示される道はどんな道であるか。それは、イエス・キリストの真理です。キリストの厳しい道です。十字架を表す意味の道です。どうしても避けることができない道です。イエス・キリストとともに歩めば、イエス・キリストの前に立ち塞がった壁である死を突破します。それに関する力強い、みことばがあります。

恐れないで、「わたしはこの世に勝った」と先頭に立っておられます。


 イエス・キリストの道を歩みつづけるため、「真理」ということばを解説してくれる無名の方を紹介したいと思います。それは、「追い風を求めよう」という短い詩です。

 

  ・人生は、夢ではない。人間が計った計画でもない。人生は、単なる同意である。

  ・神様があらゆる出来事を通じて、私たちを案内してくれるからである。それを

受入れるか、あるいは断るか。どちらかを選ばなければならない。

  ・人生は、選択というよりも、同意である。

  ・選択しようと思っていても、なかなか難しい。

  ・人間の自由というものは、自分が乗っている小舟の帆をしっかり張るか、

   あるいは、諦めて、その帆を落としてしまうのか。

  ・吹く風は、私たちから来るものではない。

  ・神様が一生懸命に吹いておられるので、その追い風に乗って進もう。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

 

 

 

 

✝ 馬小屋を見に行こう

 初めて、馬小屋をつくろうとされたのは、アシジの聖フランシスコだといわれています。 彼は、「多くの人が、イエスがどこにお産まれになったのかという意識を深めるため、また、その25日の誕生を祝うに当たって、こころの準備を整えるため」、とても役に立つアイデアではないかと考えていました。    

                                                                      
 その場所について、ルカ2章6節の物語があります。「マリアは男の子を産んだ。そして、その子をうぶぎにくるみ、かいばおけに寝かせた。」疑問のある人のために、説明する文書が加えられています。「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」


 さて、わたしたちは、その馬小屋を観察する時、イエスの誕生を祝う意味を深く理解したり、実感することがあるのでしょうか。

 

その馬小屋を観察している時、まず最初に受ける印象は、貧乏そのものです。初めに訪れるのは、羊飼いたちです。当時、彼らは社会の底辺にある人びとでした。守ってくれる屋根もなく、子供のように余分な飾りのない存在そのものを表しています。


 次に、イエスのそばにいる母マリアの透明な姿があります。イエスのため、すべてを捧げてきた方です。ヨゼフと一緒に守ってきた子がいつか、保護者から離れて行きます。しかし、彼等がいかにつらい気持ちがあったとしても、イエスが人類の救い主であることを受け入れて、それを乗り越えて、こころ静かに生きてきたに違いありません。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      
 言うまでもなく、その不思議な光景を無言で見る人が多いと思います。微笑む赤ん坊イエスと彼を見守る母親マリアとヨゼフ三人が、圧倒的な沈黙に包まれています。その沈黙から語り始める「神の言葉」が生まれてくるのです。やはり、私たちが神を迎えるため、何も言わなくても、こころ静かにすればするほど、神がわたしたちのこころを照らしてくれます。


 なるほど、沈黙を守ることによって、「イエスの信仰」が深くなります。沈黙を守れば、守るほど神がわたしたちの無知や限界を超えて、わたしたちに新しい知力を与えてくれます。私たちの限界から可能性を伸ばしてくれます。沈黙を守れば守るほど、神がわたしたちの知性を照らして、その光によってわたしたちの冷たいこころを暖めてくれます。


 最後にマタイの物語を読めば、先ほど受けた印象は強められていきます。星に導かれて遠くからイエスの産まれた場所を求めて来られる魔術者たちは、どんな動機を持って訪れたのでしょうか。
 ユダヤ人の国で産まれた救い主を知りたいということは、ある詩編がそのような希望をよく表しています。「喉の乾いた鹿のように、泉の冷たい水を求めて」。自分たちのこころの負傷を癒してくれる方を探していたのに、今までは何も見つかりませんでした。しかし,馬小屋の微笑む赤ん坊イエスを発見したら、こころがほっとしました。強く、たくましく生きる勇気が生まれてきたからです。


 馬小屋を観察するわたしたちは、どんな発見ができるでしょうか。パウロの場合、ダマスコへの道を歩く途中で、そのチャンスが訪れます。そして、いつまでも、こころの中でその体験を紹介しています。コリント人の手紙の中で、そのことを決まり文句のように伝えてきます。それは、「愛がなければ」、というコリント13章の力強い文句です。 

                                                                                                     
 馬小屋に微笑む赤ん坊イエスを囲む者はみな、それぞれの体験をしています。神が、わたしたちのところにお住みになり、愛をもたらしてくれました。イエスと出逢う人のこころが、母マリアやパウロのように変わる可能性があります。

今年も、皆、馬小屋を見に行って、幼子イエスを拝みましょう。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

 

 

 

✝ クリスマスは希望の祝い日

キリストの降誕祭おめでとうございます。

クリスマスは人間に対する神の無限の愛を称え、その愛を感謝する日です。またその神の愛に応える、人間同士の愛の日です。クリスマスの季節に、わたしたちの愛を必要とする人々に対して何かしてあげたいのです。

 

キリスト教の大切徳は三つあります、信仰・希望・愛です。その中でも愛は一番大切だとく知られています。しかし愛にエネルギーを与えるのは希望の徳だと思います。その希望の徳がなければ、人は動かないでしょう。しかしこの徳は時々忘れられているのではないでしょうか。

 

このごろ世の中が雰囲気に包まれているように思うことがあるでしょう。戦争は絶えずどこかで起こっているし、平和があってもいつまで続くものかと不安を抱いています。人間の平和は、実は一方の隠れた利己心によって作られ、もう一方にに強制される見せかけの平和であることが多いからです。またあまりにも大きすぎる貧富の差はいつかなくなるでしょうか。世界で飢え死にしている子どもたちに、人間らしく生きるチャンスが与えられる日は来るでしょうか。日本でも、いじめ、自死、失業の問題は毎日メディアに出ています。今日よりも明日は良くなるだろうかと心配する人は少なくないでしょう。人間は動物性から進化しましたが、人の人間化はまだ途中です。動物性の法則、ジャングルの法則は強い方の勝ちです。人間の法則はイエスの福音が教えるように愛です。いじめ、振り込め詐欺、暴力などを行う人は動物性の法則に留まっているといえます。

 

 しかし、暗い面を見るだけではいけません。すべてに対して悲観的になることはないでしょう。たとえば、人権は昔よりも尊重されてきました。少なくとも自由、平等、連帯を目指す人も増えてきました。完全になるためにまだ道長いでしょうが、女性と子どもの人権は多くの国で認められるようになりました。

 

 わたしたちキリスト信者は人が良くなることを強く希望しています。希望するとはただ望むことだけではありません。夢ではありません。希望するとは必ず実現することを信じるということです。なぜでしょうか。それは神が人となったからです。神わたしたちの人生を体験してくださったからです。神は永遠に人です、一人の人は永遠に神です。神のみ国の発展のために、キリストは今でも聖霊を遣わしてくださいます。神様がお創りになった世を愛してくださいます。この世は御ひとり子の世なのです。

 

 一人ひとりの人について考えるときも、希望する理由十分にあります。その理由は神がこのわたしを愛してくださることです。「あなたがたの中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日まで、その業を成し遂げてくださる」(フィリピ1:6)と信じています。進歩するエネルギーが神の霊のたまものです。今日は終わりではない、明日がある、これは素晴らしい力を与えます。わたしたちがこれからなっていく本当の自分は、今のこのわたしたちよりも、良い人間に違いありません。神の恵みに支えられて良くなるからです。

 

 新しい年を迎えるわたしたちはこの揺るぎない希望をもって毎日を過ごすことができます。イエスは「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28:19)とおっしゃったでしょう。だから、それができるわけです。イエスと共に、聖霊に導かれて、わたしたちはより明るい明日を創ることができます。

 

 それでは、神の愛を分かち合うよい年をお迎えください

 

協力司祭  カンペンハウド神父

(教会報第116号記事より)

 

 

✝ 信仰年を迎えるにあたって

 信仰とは、「天におられる神に向かい合う動きであり、神の愛の魅力=神の招きに応えることである。また、イエスキリストによって示された愛に従って生きるため、自分から動かざるをえない方に引きずられて行く動きでもある。」という定義がある。北アフリカのアルジェリアで暗殺されたピエル・クラベリ司教がまとめられた定義である。

 

 彼は続ける。信仰は、「神に向かい合う動きだけではなく、他者に向かい合う動きでもある。叫んでいる、愛に飢えている他者に向かって、神の愛を示していくための動きである。」

 

 ローマ教皇ベネデイクト十六世は、第二バチカン公会議開幕50周年を迎えるにあたって、今年の10月11日から2013年の11月24日(王であるキリストの祭日)まで、この一年を「信仰年」とすると発表した。そのために書かれた「信仰の門」という手紙の中に、この一年の趣旨が述べられている。即ち、「全教会が、信仰の正確な知識を自分のものとし、そこから信仰を生かし、清め、強め、告白することができるようになる。」

 その作業を豊かにするため、「カトリック教会のカテキズム」という教典、カトリック教会の伝統がある。ちょうど20年前、信仰の力とすばらしさをすべての信者に示すめすために、福者ヨハネ・パウロ二世が発表した文書である。

 

「信仰の門」という教皇の手紙は、不確実な世界に生きる私たちに新しい展望を与えるために書かれた手紙であると思います。まず、「信仰の門」である洗礼の時から現在に至るまでの歩みに対し深く反省するため、励ましてくれる。そしてまた、明日に向かって、新しい挑戦を考えるため、心からの勇気が湧いて来るよう祈っておられる。この挑戦とは、この世の福音化、この時代にふさわしい福音宣教でもある。                                                     

 各小教区の中で、この作業を進めるため、学習会や行事などを考える必要があると思う。是非、この作業を通じて、「愛の実践を伴う信仰」が生まれて来るよう努めよう。

 

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

(教会報第115号記事より)

 

✝ 生きる喜び、信じる喜び

歳を取ったからかもしれませんが、このごろわたしは「生きている」喜びをつくづく味わっています。「生き続けている」という喜びではありません。「存在する」という喜びです。わたしが存在していなかった時はありましたが、いつからか存在し始めたのです。そのときから、わたしの存在の前からあった太陽の光、その暖かさ、お月さまの謙遜な光と真っ暗な空の中の星の瞬き、山と海の荘厳さ、スミレの隠れた美しさを味わわせていただいています。それだけではなくそれ以上に、人の心の暖かさが身に沁みることは一番素晴らしいことだと思います。

 

そして、わたしがこの地上を離れても、わたしの存在は終わらないのです。永遠に続くのです。やはり生きることは不思議で、素晴らしいことです。この存在はわたしに対する神の愛のおかげで始まり、たえず、また永遠にわたしを包んでいることを考えるとき、生きる喜びと神を信じる喜びはひとつだとよくわかります。

 

しかし、この地上で喜ばしいことしかないとはいえないでしょう。悲しいことも沢山あります。この地上の生活は「涙の谷」と言えるときもあります。地震、津波、竜巻、人が抑えることのできない自然の荒々しさのために苦しんでいる人は少なくありません。そしてそれ以上の悲しみもあります。弱い者に対して、利己心に縛られて暴力を振るう人もいます、特に耐えられないのはその子を生んだ母親に命を奪われた残酷さです。しかし、そのときこそ愛のないところにまことの命がよみがえると切に希望し、そのために力を尽くしたいとあらためて誓うときではありませんか。

 

そこで考えます。神の愛によって生きる恵みが与えられたわたしは、愛に応えたくなります。応えるために自分も愛する者になるしかないのです。愛によって生かされたわたしは、愛を学ぶために生かされたのです。愛は自分を忘れて、人に仕えるのです。人のために生きるのです。しかしわたしのようなものが愛する者になれるでしょうか。案じる必要はありません。神ご自身が一緒にいてくださるからです。「わたしは世の終わりまで、あなた方とともにいる」というイエスの言葉に励まされるのです。またまわりの兄弟姉妹にも助けられるに違いありません。

 

このごろ多くの人は生きる意味をなくしてしまったと思われます。暗い日々、喜びのない日々を過ごしているようにみえます。彼らに神から来るまことの喜びを伝えたいと思います。

 

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第114号記事より)

 

✝ キリスト者として生きる

キリスト者として生きることは、旅にたとえられます。旅の途中、目的地を見失い、挫折することもあります。東日本の兄弟たちの声に耳を傾けるとき、そのような叫び声が聞こえて来ます。こころが痛みます。


 この間、NHK BS プレミアムで放送された「ロングトレイル」という番組をみました。興味深い番組でした。人生の目標を失った人びとがアメリカのアパラチア山脈を横断する長い旅に出て行きます。戸惑っている人びとの歩みの物語です。職を失った人、家庭でうまくいかない人、戦争で多くの親友を失って彼らの安息のため、裸足で歩く人等が次々と紹介されました。


 アパラチア山脈を横断する旅は、コンビニの近辺で食後の散歩をすることではありません。二千マイル(3500km)の厳しいハイキングです。腹がへったり、のどがかわいたり、足がずいぶん痛んだりする“受難の道行き”の場でもあります。川で水を求めなければ水筒に水を入れられない。部落に近づいたらすぐ、食料をまとめて次の長い道のりの準備を考えなければなりません。途中で止める人もいれば、困難を乗り越えてトレイルを歩き続ける人もいます。意味の深い魅力がいよいよ現れてくるからです。

 

机の上で頭だけでは解決できない問題があります。しかし、歩くことによってはじめて、立ち現われてくることがあります。前へ進むことによって、全身全霊が目覚めさせられ、考え始めます。自然という環境を相手に五感の新しい出会いがあります。自然の新鮮さだけではなく、同じトレイルを歩く他者もいます。                                                     
 それぞれの出会いによって、自分を取り戻すことができます。自分を見つめるということは、トレイルを歩く一番の魅力です。自分を見つめれば、自ら新しい目標をたてることもできます。人生の再出発になります。


 その番組をみながら、終わろうとする四旬節との共通点を考えさせられました。人生のトレイルで歩きながら、イエス・キリストと出会ったことは、本当に良かったこと思います。                                                            
 一つしかない人生を一人で歩むのではなく、案内してくれるイエスがいます。道を外れたこともありましたが、そのときは叱られてしまいました。何回も挫折したことがありました。しかし、いずれにしても新しい目標を見つけるまで、ちゃんと黙っていて、そばにいて助けていただきました。


 今、この文章を読んでくれるみなさんは、いかがお過ごしでしょうか。天のお父さんの国まで、イエス・キリストがわたしたちの十字架も背負って、道を開いてくれました。わたしたちもしっかりと、彼の後に付いていけば、どんな挫折でも、道から外れたことがあったとしても、彼がわたしを必ず捜しに来ます。御父の国の向こうまで、引っ張っていってくれると使徒ヨハネが伝えています。

                                                                                                   
 復活祭に洗礼を受ける皆さん、イエス・キリストの集い、信仰共同体である教会にようこそ。共に人生の目標をしっかり見つめて,イエス・キリストのトレイルを歩みながらお互い助けあいましょう。

 どうかよろしくお願いたします。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

 

 

 

✝ 順風に帆を上げて進む

こどものころ、旧約聖書物語を読むことを楽しんでいた。一こまずつの画を覗きながらその中味をおいしいジュースのようにごぼごぼ吸い込んでいた。物語の細かい筋よりも、なかなか見たことのない挿絵を今でも覚えている。例えば、モーゼの十戒とか、ノアの箱船とか。しかし、もっともっと不思議なのはやはり、ヨナ物語の挿絵だった。それは、可哀想な小柄のヨナをあっという間に飲み込んで、3日目に海辺へ彼を吐き返してくれるデッカイ魚の一こまの絵だった。

 

ここでは、ヨナ物語の裏に潜んでいる筋に触れてみたいと思う。
 ヨナ、ヘブライ語で「きじばと」という名の予言者は、ニネベという町(現在、北イラクのモスル)を悔い改めさせるよう、神に
わされる。しかし、ユダヤ人でない人々と接する気分でなかったので、正反対の南方向へ逃走する。海につくと出港する船に乗り、貨物の中に隠れる。残念ながら,嵐にあって船が沈みそうになり、原因を探そうとした船乗りたちが彼を見つける。「わたしを海に投げ込みなさい。そうすれば海は静まるでしょう」と神の前から逃げてきたと告白したヨナは海へ落とされる。海から立ち上がった大きな魚が彼を呑み込んで3日後に吐き返す。今度は間違いなくニネベへ向かい,ニネベの人たちを悔い改めさせようと町中を巡り、人々を回心させたので、神は彼らの上に下そうとしていた災いを止められた。
 しかしヨナは神の行いに対し、次から次へと神に文句を言い続けながらも神の計らいに驚かされる。まず、ニネベの人々がすぐ悔い改めただけでなく、神は彼らに罰を与えることはしない。惨めになる彼には、深く反省する道しか残されてない。

 

それでは,この物語はいったいどんな教訓を教えてくれるのか。この物語の鍵は、新約聖書のマタイ12章39節の次の解説である。イエスを試そうとするファリサイ派の人々が、無理矢理にイエスに「しるし」すなわち力、奇跡を見せて欲しいと頼んでいる。彼らは、イエスを信じようともしない。イエスは彼らの意地悪い態度を指摘する。「預言者ヨナのしるし」のほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが、三日三晩,大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩……」。これこそ、イエスが神から派遣されたメシアであることを示す証明ないしは保証である。二ネベの人々がヨナの話を聞いて悔い改めたのに,頑固なファリサイ派の人は、いくらイエスの話を聞いても、彼を絶対に信じない。

 

この物語を読んで、どんな教訓を学べるのか。こんな結びを書いて理解出来るかどうか確かめてみよう。
 「人生は、夢ではなく、人間の計画でもない。人生は、同意である。神様は,様々な出来事を通じて道案内してくれるので、自由に「はい」か「いいえ」かを応えればいい。」
 「人生は、選択することよりも同意である、自由に選択することは少ない。」
 「人間の真の自由は、帆を上げつづけることである。または、帆を下げて諦めて待つことである」
 「風は、わたしたちの中からくるものではない。神様が風を吹かれる。わたしたちは順風によって進む。」

 

毎日,穏やかな海でイエス・キリストと付き合い、キリストと結ばれていれば、嵐の荒い海原でもやりすごすことが可能ですが。それには、私たちの小舟の帆を上げて順風に当てることです。あともう少しで、四旬節と復活祭を迎えようとしています。
 ヨナ物語がわたしたちの参考になれば幸いだと思います。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

(教会報第113号記事より)

 

 

 

✝ 年末は祝日の季節です

クリスマスと新年おめでとうございます。クリスマスと元日の祝日がすべての人々に希望をもたらす祝日になりますように祈ります。復興を頑張ってやり遂げようとする東日本、平和をしっかりと固めさせようとするスーダン、財政の不安をなくそうとする国々にも暗闇の中に輝いている光が見えてきますように。

 

多くの人がクリスマスを祝いますがクリスマスの本当の意味を知らないで祝っています。消費クリスマスになってしまいました。クリスマスセール、クリスマスパーティ、節電にもかかわらずクリスマスイルミネーションが今年も盛んですがキリスト不在のクリスマスではないでしょうか。しかしキリストの誕生を祝う心がなければ、本当のクリスマスにはならないでしょう。神が人となったこと、これからもそれ以上の偉大な出来事はありえません。宇宙万物をおつくりになった方が、わたしたちの地球の道をわたしたちと一緒にあるいてくださること!

それでも喜ばしく思うのは、大勢の人にとっても、クリスマスは平和、隣人への思いやりの季節であることです。キリストのことを知らなくても、福音の精神にしたがって、この季節は恵まれていない人たちを助ける時だと思われているのではありませんか。

 

お正月には、家族の健康、商売の発展を祈るためにお寺やお宮に行く人が多いです。それは素晴らしい習慣です。しかし、わたしたちに時間が与えられているのはわたしたちが人生において成長するためだとまず考えるべきです。

コンピューター、携帯電話の普及によって時間の感覚が変わって来ました。移り変わりは驚くほど速いと自覚して、明日を想像することができなくなりました。自分自身が二十年も経ったらどういう人間になるかということさえも分からなくなってきました。そのため約束、計画は難しくなってしまいました。今の時代で、結婚するときに一生結ばれることを考えていない人もいます。

年月が経っても、自分の決心が弱くなることがなく、却って強くなっていくことは望ましいことです。時間はすべてを擦り切れさせるといいますが、愛は違うはずです。愛は感情だけではありません。愛はただ相手の親切に応えることでもなく、相手の心を支え、暖めることで、愛は決断することです。今年も自分が幸せになりたい気持ちがあるのは当然ですが、周りの人を幸せにしたい心も持ちたいものです。

どういう歳になっても、人としての成長を目指しましょう。自分の明日を自分でつくりましょう。神の愛を信頼することはいのちを信頼することと同じです。今年、自分に与えられる毎日を信頼して生きるのです。これは皆さんのためのわたしの祈りです。

協力司祭 カンペンハウド神父

(教会報第112号記事より)

 

 

 

✝ 雨にも負けず

 

聖書はそれぞれ違う特徴を持つとされる本が72冊あります。現在、日本社会が直面している様々な難問に対し、聖書の中のヨブ記を紹介したいと思います。


 昔々、ある中東の国に、神を固く信じていたヨブという大地主がいた。耐え難い大きな試練に見舞われても、なおかつ彼が神に対する信仰を持ち続けるかどうかについて、神と悪魔との間で議論になり、ヨブはその賭けの対象となる。
 結果、ヨブはあっという間に全財産と子供を失ってしまうが、彼は神を恨まず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言う。

その上、彼は絶え間ない痒みを伴う重い皮膚病を患う。それを見て、「神を呪え!」と迫る妻に対し、彼は「われはかくも多くの幸いを受けた。どうして禍を拒むことができようか」と動じない。

ヨブの悲惨な状況を知って、三人の友人が尋ねて来る。彼らは長い議論の末、ヨブがこれ程の不幸に見舞われたのは、彼が罪を犯し、その罰を受けているのだと主張し、ヨブを打ちのめす。

ここで、ヨブは神に向かい「正しい人間が苦しみ、罪のないものが何故かくも痛めつけられるのか」と死に至る絶望の中で、泣き叫ぶ。

神は長い沈黙の後に、ヨブの苦しみのどん底での叫びに答え、御手を差し伸べ、その涙を拭いヨブを憐れむ。ヨブは神の大いなる愛に気づき、自分の逆上を恥じる。

 

 ヨブ記はちょっと長いのですが、今私達が直面する課題を考える上で、幾つかの大切な点を示唆しているのだと思います。

 

1、人は、神とあまり話そうとしない。そして、神に対して遠慮し過ぎる。神はご自分への叫びに敏感な方であるはずなのに。

 

2、「私が最も苦しい時、あなたは何処におられたのですか」という人間の叫びに神はすぐには現れない、まるで私達には不在であるかのように思われる。しかし、本当にそうなのだろうか。

 

3、最近、沈黙に耐えられない人々がいる。答えるには時間がかかるとすれば、忍耐を覚えることは出来ないだろうか。私達人間が違う見方をするならば、世界は異なる風景を見せてくれるのではないだろうか。そして、違う形の幸福をも見せてはくれないだろうか。

 

4、聖書の中の神はどんな方なのか。いとも簡単に神にも人にもレッテルを貼りがちな私達であるが,新たな気持ちで聖書を読むならば、そこにはまた神との新たな出会いがあるに違いない。

 

 最後に一言、どんな時も希望はあります。耐え難い絶望の中でも、私達が絶えず神の声に耳を傾け神の愛を信じ、望み、祈るなら、神は答えて下さるでしょう。

ヨブ記を手にして、新たな希望を見出すことが出来れば幸いです。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

(教会報第111号記事より)

 

 

 

 

✝ 生きる意味

 

教会を訪ねてくる多くの人は、宗教を求めるよりも、自分自身を求めていると思います。自分がどういうものか、どこから来たのか、どこへ行くのか、生きる意味はなんだろう、生きる意味さえもあるのか、といった問いに答えを求めていると感じます。

 

こうした問いについてキリスト教には心を満たす答えがあるのかと、調べに来ている人は多いでしょう。確かにこれは根本的な問いに違いありません。

 神について話すことは、当然、幸福にいたる道を示すことです。

 

 このごろ、多くの人が不安の中に毎日を過ごしています。それは東日本大震災のためだけではありません。

 やっと学校生活が終わった人は、前の世代がつくった社会の中でやっていかれるのかと心配する人が少なくないようです。まず仕事を見つけられるのか、すなわち今の社会が自分を必要とするのかと悩んでいるのです。生きるために金銭がなければなりませんが、金銭の土台の上に立てられた社会は人にまことの幸福を与えることができるでしょうか。

 中年の人は、家庭生活と社会生活の調和に苦労している人も大分いるようです。最近離婚は多くなりましたし、携帯電話、パソコンの時代に育つ自分の子どもの養育に自信をなくした人もいます。「子どもは何も聞いてくれない」という不満は、「子どもに何を言うべきか」という疑問に変わったらしいです。

 引退のとき、仕事以外に大事にしたことがあったと言える人は幸いですが、そうでなければ引退した喜びが味わえないでしょう。自分の毎日は退屈になります。けれどもそのときこそ、生きる意味について考えるのは遅すぎません。

 

ご自分の生き方、特にご自分の死によってキリストが教えたこと、示されたことは、生きる意味は愛にあるということです。普遍的な愛です。言葉の壁、性別の壁、貧富の壁を乗り越えることができるのは愛だけです。愛の社会、愛の世、平和の世を作りましょう。キリスト自身は「仕えられるためにではなく、仕えるために来た」 (マタイ20:28)、また「受けるよりは与える方がさいわいである」 (使徒言行録20:35)と言いました。それに反するのは社会を乱す金銭、乱れるセックス、支配への欲望です。それを正すのはまことの愛しかありません。

 

 聖書に記されているように「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」(創世記2:18)。人は他の人との交わりがなければ、人間らしい人間になりえません。親、先輩、学校の先生などの助けが必要です。幼児のとき、成長の責任は100パーセント親にありますが、成人になると、その責任は本人にあります。すなわち養育はまことの自由とまことの責任に導くのです。しかし、他者は助けになるばかりでなく、傷を与える者となることもありえるので、交わる際には正しい判断も必要とされます。

わたしたちの歩んで行こうとする道はイエスが示された道です。その道を歩むと、キリスト信者として生きることと人として生きることは、まったく同じことだとわかります。 

 

協力司祭  カンペンハウド神父

(教会報第110号記事より)

 

 

✝ なんびとも一島嶼にてはあらず

 

 毎日、人と会うことはとても嬉しいことです。しかし、元気でない人に会えば、自分も元気になり切れない性格があります。今日は、気になることがあります。現在人間社会という集団の中に孤立、孤独にされる人が増えているということです。

 

 上の奇妙なタイトルが示すように「人が独りでいるのは良くない」。創世記にある創造主のことばによく似ています。このタイトルは、17世紀ころ、文化人であったイギリスのジョン・ダンが書いた詩の一節にすぎません。その詩は「誰がために鐘は鳴る」と呼ばれています。当時、ヨーロッパ大陸と自然に繋がれている島国イギリスが、ヨーロッパとの相互依存関係を無視することにこだわっていました。ジョン・ダンが同上の言葉通り、その否定的な態度を強く批判しました。国が違っても、その中に住んでいる人と他国の人と同じ人間ではないかということを強調し、人間同士の連帯をなくすのは良くないことであると訴えました。

 

 さて、孤立、孤独にされる人はどんな人なのか。家族、友人、職場の仲間などとのつながりを出来なくなった人々です。彼らと他者とのつながりを表す小さな糸のようなものを段々切断されます。織物に例えられる横と縦の糸で造られている社会構造の一本一本ずつの糸を切断されれば、社会の中での存在がなくなってしまいます。就職できないからといって、孤立されている青年もあれば、退職してから忘れられている年輩の人もあります。集団の中での個人の存在意識が薄くなってしまえば、人と人との間に結ばれる連帯そのものが消えてしまう可能性があります。社会を支える国家の適当な政策が遅くなったり、企業が呼吸困難になったりされると、多くの人が救われるはずの安全網の機能も脆くなってくる結果、多くの人が保護されなくなってしまう現象になります。

 

 社会を支えるのは、政治、経済、文化の柱三本ですが、三本目の柱である文化は、まだ力が残されているでしょうか。80年代の産業構造の変化に伴って、企業単位の労働組合が分裂され、地域ユニオンが生れてきました。80年代後半の労働不足をきっかけに、多数の外国人労働者の来日が起こり、人間として受け入れる受け皿の用意をしなかった行政の怠慢のため支援団体が誕生しました。忘れられない95年の神戸淡路大地震を機会に、多数の若者ボランテルが全国からあふれてきました。また、インターネットを通じて新しいネットワーキングが広まっています。しかし、孤立され、この情報交換の流れから外されている人も大勢います。2年前、渋谷公園でのテント村もありました。

 

 社会の片隅に忘れられている人々が、日本社会の仕組みの一時的な故障によって、犠牲者としてしわ寄せを受けてしまいます。そのことを意識して、対応できるでしょうか。それとも、縁のないことなのでしょうか。

 

 毎年、イエス・キリストの死と復活を祝うため、教会は四旬節という準備期間を設けていますが、ちゃんとした適当なテーマを選んでいますか。それとも信徒一人ひとりに任せられていますか。もしも、いまの課題を探ってみようという興味があれば、真剣にイエス・キリストの解放、救いのメッセージをキチンと惑わずに理解し、その課題について積極的に答えを出すべきではないでしょうか。

 

 まず先に、イエス・キリストの福音のメッセージをより深く理解するためどうすればよいでしょうか。一つの読み方を考えましょう。ルカの10章の27節にある掟を三つの側面から読む事ができます。

 ―「心、魂、力を尽くして、主を愛せよ」 イエス・キリストが与えてくれた命。そのために、イエス・キリストがこの世で歩んで来られた険しい道と勝利。私たちに残された約束。私たちはその事を深く黙想し、与えられた希望を胸に、すべてを尽くして主を愛していくということです。

 ―「隣人を愛せよ」 家族、友人以外に隣人がいるでしょうか。イエス・キリストに学びながら、彼らとどうつながればいいでしょうか。

 ―「自分のように」 マタイ7章の12節には、別の言い方として「人から自分にしてもらいたいと望むことを人にもしてあげなさい」という黄金律が記されています。人から自分にしてもらいたいと望むことを、どのようにしてあげることができるでしょうか。

 

 イエス・キリストのメッセージの理解から、実践に至るまでキリスト者としての霊性(生き方)の向上を目指せなければなりません。ちょうど、教会の伝統から四旬節という準備期間が備えられています。その四旬節が三本柱に基づいて造られました。マタイの6章に骨組みが提案されています。

 ―「祈り」神の方へ目を向けること。

 ―「施し」隣人と分かち合うことによって愛が生かされる。

―「断食」自分を見つめることによって、自分を見直すことができる。

 

そのような歩みを先に歩んで来られたのは、イエス・キリストです。彼は活動を始める前に砂漠に入り、誘惑を受けるため、神と隣人と自分との基本的なつながりが結ばれるよう、悪魔と闘う姿勢という模範を与えてくれました。マタイ4章の4節からその場面を見ることができます。

 

―「断食」40日間断食を続けたイエスは、お腹がすいて弱くなって来られたので、悪魔の言葉「これらの石がパンになるように命じなさい」を受けます。しかし、力強く抵抗をします。〔人は、神の口から出るすべての言葉によって生きる〕。欲しい物が手に入れられるよりも、人間性を磨くために全てを尽くす姿勢を見せます。

 

―「祈り」神との信頼関係を壊すつもりの悪魔は、神殿の上から身を投げるように命じるのですが、イエスが神と深いつながりを保ち続けるためはっきりと断ります。

―「施し」イエスが悪魔の前にひれ伏せば、世界の富が手に入るという誘惑も断って、どんな権力を握るよりも、人々がお互いにつながりったり、助け合ったりすることなどを進めるため悪魔に拘って勝ってしまいます。

 

最後に、イエスの後についていこうという道を選んで来たキリスト者が、崩れていく社会の仕組みを観察する時、どんなことができるでしょうか。まず、何より先に、冷静に隣人と自分と神とのつながりを再び結ばれるように勤めなければならない作業から再出発を行います。マタイ福音書の5章の4節には、そのヒントが与えられます。〔悲しむ人は幸いである。その人は慰められるからである〕また、〔これらの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである〕。今現代、病者の見舞い、老人の介護、ホームレスの炊き出し、外国人への支援等、関わっておられる兄弟の活動が勧められていますが、社会が変われば変わるほど多くのニーズがまた現れてくるでしょう。対応できるように目覚めましょう。人と会う時の笑顔は太陽よりも輝かしい、電気よりも安い。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とマタイ10章の8節に勧められているようにゆきましょう。

 

主任司祭 アダム・ジェラール神父

  (教会報第109号記事より)

 

 

✝ 時間の素晴らしさ

時間は絶えず休まず流れて行きます。まもなく2010年は過去のことになってしまいます。嬉しいときでも、悲しい時でも、時間の進み方には変わりはありません。

良い年であるか、悪い年であるか、それは時間のせいではありません。時間の実りは人の業(わざ)です。

 

 

 大昔から年に番号をつける習慣はあります。過去を思い出してその体験を生かし、未来を準備するためです。過去はもうないし、未来はまだないが、人は自分と他人の行ったことを回想しながら、明日のための計画を立てます。少なくともそうすべきでしょうが、このごろ、コンピューターの時代となってから、それは変わりつつあるようです。

 

ネットの依存者は過去と未来を失ってしまったようです。瞬間だけに生きています。世界の出来事を直ちに知らされるし、問題があれば、先輩に聞くよりも、インターネットを訪ねます。自分の記憶か先輩の記憶に頼る代わりに、機械に頼ってしまいます。また世の中の物事は絶え間なく変わるので、将来のための計画、約束することは意味のないことだと思ってしまいます。未来に信頼を失い、確定的なことはないと思い、忍耐力、辛抱強さを失ってキレテしまいます。

 

 しかし人は自分自身をつくるべきです。それができるために自分の将来にビジョン、希望をもつことが必要ですし、それは時間の中でしかできないことだと悟らなければなりません。自分がどういう人になりたいかという問いをまじめに自分に問いかけること-それが価値のある人生の出発点です。

 

 新しい年を迎えるわたしたちは、自分が人間として成長するために時間が与えられているということを思い起こし、この大きな恵みに感謝しましょう。それは、もう一度自分の計画を磨いて、その計画に近づくために自分の力を整える、素晴らしい機会です。

 

 幸いに、キリスト信者は人類の歴史の中に大きな力を見出します。

過去には、キリストの誕生があります。

今も、神はわたしたちと一緒にわたしたちの道を歩んでいてくださいます。

そして未来には、大きな希望をもっています。神のみ国の完成に向かうのです。

 

 自分自身の生涯にも神の恵みと感じる出来事、本や人との出会いなどがあったことでしょう。将来についての望みも感じたことでしょう。この望みは時にはとても小さいものに思えたかもしれません。しかし、その望みはたえず戻ってきて消えることはないと、いつかわかります。キリストの光は消えることがないからです。

 

 それでは豊かな実りをもたらす良い年を迎えてくださるようにお祈りを申し上げます。

 

協力司祭カンペンハウド神父

 

 

 

✝ 秋のかおり 「与えられる喜びについて」

 

923日以降、雨と強い風によって大きな気候の変化が起きた。そのため深い解放感をもたらしてくれた。やっと、二ヶ月間続いた猛暑が終わり、秋らしい季節になった。ほっとした方々も多いと思う。夏ばてにならないよう祈っております。

 

さて、秋らしい心を高める話を聴きたいと思わない人はいないでしょう。「大きな木」という絵本の物語を読んでみたいと思います。

 

 

一本のりんごの木がある。その木はある子供と大の仲良しだった。子供はりんごの木で木登りをしたり、枝にぶらさがったり、りんごを食べたり・・。

子供もそのりんごの木が大好きで、木も子供が大好きだった。しかし、子供は成長する。それに伴って考え方も子供の頃とは違ってくる。

 

「お金がほしい」成長した子供がいうと、木は「自分になっているりんごをもいで、売ってお金にすればいい」、と教える。それならば、と青年になっていたかつての子供はりんごを全てもぎとって行ってしまう。でも木はうれしかった。

 

さらに成長し、すっかり大人になったその子が今度は

「結婚したい、子供がほしい」という。そこで木は「自分の枝を切って、それで家を建てればいい。」と言う。壮年になった男はその言葉通り、枝をすべて切り取って、持って行ってしまう。でも木はうれしかった。

 

そしてさらに年をとったかつての子供は

「遠くへ行きたいから船をくれ」と言い出す。彼は木の幹を切り倒し、船を造っていってしまう。でも木はうれしかった。

 

そしてさらに長い年月が過ぎ、もうすっかり老人になったかつての子供が、また木のもとに帰って来た。が、もう何もあげられるものが残っていない木は、自分にはもう何もない事を告げる。しかし老人は

「もう、たいして欲しいものはない。ただ、座って休む場所があれば」と言う。それなら、と木は精一杯に背筋を伸ばし、残った自分である切り株に座って休みなさい、と言う。老人はそれに従って座る。木はそれでうれしかった。

 

 

この物語の作者シェル・シルヴァスタインは、ヨハネ福音書15章を読んだかどうかわからない。しかし、りんごの木とぶどうの木とはよく似ている。どんな事を頼まれても必ずうれしい心をみせる。自分の全てを捧げてからもうれしい。ぶどうの木の場合は、幹に繋がっている枝が実を結ぶよう心を豊かに配ってくれる。神様は私達一人ひとりの成長を深く望んでおられる、というメッセージが伝わってきます。

 

教会の秋はどうなってしまうでしょうか。できればこの元気一杯の話が私たちの心をふくらませ、お互いに「与える喜び」の秋になればいいという思いを捧げたいと思います。


 

主任司祭  アダム・ジェラール神父

  (教会報第107号記事より)

 

※「おおきな木」シェル・シルヴァスタイン 著

        村上春樹 訳     (あすなろ書房)

 

 

 

 

✝ 愛に飢え渇く社会

最近テレビ、新聞に出る家庭の暴力の問題、特に子供に対する親の暴力、親に対する子供の憎しみが多くなってきた気がしませんか。みな愛に飢え渇いているしるしだと思います。愛を知らない人、愛を信じない人は不幸になるし、回りに不幸を蒔いてしまいます。子供が言う「家は面白くない」という言葉ほどの寂しい言葉はありません。愛に飢え渇く人が多くなったと思います。

 

 

愛することができるために、まず自分が愛された体験をしていなければなりません。親に大切にされているか、親の邪魔者であると感じているかによって、その子の将来が明るいか暗いかということが決まってしまいます。

 

消費社会は物を使って捨てますが、人に対しても同じことが言えます。人を使って捨てるということは社会の利己心の表れです。利己心は悪へと人を導きます。争い、戦争はそこから生まれてくるのです。利己者二人が結婚するなら、地獄の始まりで、互いに不幸にするのです。しかしまことの喜びは愛の実りです。「受けるよりは与えるほうが幸いである」とイエスは教えました。(使徒言行録20章35節

 

そのことは小さいときから子供に教えなければなりません。愛される喜びは大切で愛を信じるために必要なのですが、愛することができるようになるためには導きがなければなりません。人を喜ばせる喜びを味わわせることは子供の養成の大事な鍵です。「お母さんが喜んでいる」という言葉は子供にとって大きな励ましです。子供が正しくないことをやったなら、「そんなことをするとお母さんがお前を愛さない」といってはいけない、「そんなことをするとお母さんが悲しい」というべきです。子供はどういうことがあったとしても、お母さんの愛をいつも安心して期待できるはずなのです。

 

愛の中には「要求」が含まれています。「あなたを愛しているから、あなたにはこういう人になって欲しい」という望みです。親の厳しさは、親の都合からではなく、子供にたいする希望からであると子供が感じるなら、かえって安心します。しかし、聖パウロによると愛の第一のしるしは寛容と忍耐であるということを親は忘れてはなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4節)

 

愛すれば愛するほど、喜びを感じるが、愛すれば愛するほど苦しむことがあるともいえるのです。愛する子が重病になった時のお母さんの苦しみは、会ったことのない人の重病の知らせを聞いた時の苦しみと比較できないでしょう。

そういうことを考えると人を一番愛しておられたイエスは、人の不幸()に出会った時その苦しみは一番大きかったと分かるでしょう。

 

ゆるし合うことは愛の最高のしるしだと思います。失敗があっても、希望を与えることになりますから。「起こったことを私たちのつながりの妨げにしたくないから、新しい出発をしようではないか」、「これで終わりではない、明日がある、立ち直ってくれ、わたしはあなたの力になりたい、また明日わたしが転んだら、わたしの力になってください、二人で明日に生きようではないか」

聖パウロが言った言葉を思い出します。「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤの信徒への手紙5章14節わたしたちはこれができるのです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節


 

協力司祭  カンペンハウド神父

  (教会報第106号記事より)

 

 

 

✝ 自由になりなさい -真の自由とは-

 

 

イエスは言われた。

 

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 

 (ヨハネによる福音書8章31節)

 

 

 

人はみな自由に生きることを望んでいます。しかし、みな同じことを考えているでしょうか。まず自由について考えるとき、問題の対象をはっきりしなければならないでしょう。ある国、ある民族、ある社会階級などの自由を問題にしているか、または個人の自由を問題にしているか、それぞれの問題は大変異なります。前者について考えると、たとえば奴隷制度、植民地主義、人種差別、独裁主義などの問題の解決のためには個人的な努力だけでは足りない、力を合わせて解放運動を起こさなければなりません。これも大切な問題ですが、今日は後者の問題、すなわち個人の自由について考えてみたいと思います。

 

まことの自由は、自分の明日を自分の力と責任でつくることができるという意味だといえます。もちろん自由の概念の中には、選択の可能性も含まれます。自分の行動を選んで決める可能性がなければ、自由はありません。しかし、好きなことを選ぶことが必ずしも自由だとはいえません。目先の欲望に束縛されているかもしれません。その場合、選択の可能性がなくなります。アルコール依存者、ゲーム依存者、ポルノ依存者は自由を失ってしまっています。自由を取り戻すために長いつらい治療が必要です。

 

私たちはみな依存者でなくても、どこかで引っかかっているのではないでしょうか。自分が人にどう思われているかを恐れたり、老後の不安に落ちいり、お金に執着したりするようなことはありませんか。

 

人は楽な道を歩もうとする傾向があります。けれどもその道は必ず自分が歩むべき道でしょうか。我がままは自由のように見えますが、実は目先の欲望に盲目的に従うことではないでしょうか。自由な生活を送るためには判断力と意志の力が必要です。節制、セルフ・コントロールが必要です。自分自身に対する責任を考えてほしい。

 

 

やはりどこから開放されて、何のために自由になるのということを考えるべきでしょう。その応えは福音書にあります。

 

協力司祭  カンペンハウド神父

 

 

✝ ご復活おめでとうございます

入信の秘跡を受けた新しい兄弟姉妹を迎えることのできるとき、復活祭の喜びは倍になるし、また自分の洗礼、堅信、聖体の恵みを新たに考える機会にもなります。そしてこの復活祭の喜びは復活節の間ずっと続きます。

 

この復活節は聖霊の節とも言います。それは、聖霊が与えられるのは主イエスの死と復活の実りだからです。最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちに「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ167)とおっしゃっていました。またヨハネ書には、聖霊が弟子たちの上に降ったのは復活のその日だった。(ヨハネ2022

 

ルカの福音書でも同じように、聖霊が与えられるのはイエスの死と復活の感性であると示しています。シナイ山で神とイスラエルとの契約は、エジプトの脱出の50日の後にあったので、シナイ山の契約は脱出の完成と思われてきた。同じように、聖霊降臨はイエスの復活の50日の後に行われたということを書いてルカは、聖霊降臨が復活の完成だと分からせようとしています。

 

 復活節は復活祭に始まり、聖霊降臨祭に終わるので、典礼においても、復活と聖霊降臨 の関係は強調されています。

私たちの信仰生活も聖霊による信仰生活ではないでしょうか。聖パウロはローマの教会への手紙の中で「あなたがたは神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることをわたしたちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ815-16)。またガラテヤへの手紙の中で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6)

すなわち、イエスに宿られていた聖霊は私たちに与えられたのです。自分たちのうちに働いておられる聖霊に信頼し、すがることは霊的進歩の始まりです。

 

 今年の8月1日に、大津教会で、堅信の秘蹟が行われます。大津教会にとって、もう一つの聖霊降臨と言えるでしょう。堅信の秘跡を受ける兄弟姉妹のために祈りながら、自分の堅信を思い出して、聖霊の導きに従って毎日を送るようにいたしましょう。

 

協力司祭  カンペンハウド神父

  (教会報第105号記事より)

 

 

 

† 地には平和、御心に適う人にあれ(ルカによる福音 2章14節)

一日の重労働に追われ、安全な場所で休んでいた羊飼いたちは天使の騒ぎに驚いたでしょう。

運動神経の良い彼達が『マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。』(ルカ216)尊敬されていなかった羊飼いたちが天(神様)に対して、再び信頼を置き、自分達の存在が認められたことに自信を持って来た。

この不思議な出会いによって、心を膨らませ、そして新たな生きる決意を持って、多くの人に接し、成長していったのでしょう。

 

現代、若いイタリア人女性活動家のキアラ・ルービックがこの箇所について、次のような詩を描いてくれました。

 

 『神は幼子になった。

それは、神が遠くにいるのでないことを、わたしたちに告げるため。

天使は歌う、地上において人々に平和があるように、と。

全能の力を持っておられるのに、自らを守ることのできない者となった

お方が、権力者からその尊大さを奪い、わたしたちの心から憎しみを消し去り、それを愛で満たしてくださるように。

そして、戦争とは何かということを、思い出す国がどこにもなくなりますように。』

 

年末年始、平和のため祈るわたしたちが、どんな生き方を求められているでしょう。

「御心に適う人」を育てるには、どんな工夫をすれば良いのでしょうか。

子供達と平和を考えるイギリス人学者のバーナード・ベンソンはその生き方をイエス・キリストの歩んでくれた道の他に学ぶところがないと強調します。

「御心に適う人」の心は、次の通りである。

『隣人から自分たちを守ることだけを考えるのは、戦争へと向かう武器のいる道です ―けれども― 自分たちの方から隣人を守ってあげようと考えるのは、平和へと向かう武器のいらない道です。』

 

イエス・キリストの平和が皆さんの心に訪れますように祈ります。

 

 

主任司祭  アダム ジェラール神父

  (教会報第104号記事より)

 

† ようこそ、大津教会に!

 

憩いの場を求める者には、イエス・キリストと出会うことが可能です。正面の壁に、彼の栄光の姿があります。そして、聖書には歓迎のことばも知らされています。

「疲れたもの、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに着なさい。休ませてあげよう」マタイ福音書11章28節  

 ゆっくりとお祈り、瞑想でもしたらよろしいでしょう。もし、わからないことがあったら、ご遠慮なく事務所の方へお訪ねください。

 

              主任司祭  アダム ジェラール神父

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエス・キリストの栄光の姿 「復活の十字架」 (聖堂)

(2009/11/29)